身体が覚えている記憶。

GWが始まり、私もちょこっと帰省。
月一で帰っているけれど、ゴロゴロしたり、散歩をするなどゆったりした時間を過ごしたのは久しぶり。
散歩しながら改めて気づいたことは、物理的に家族や土地から離れることはできても、それを自分と完全に切り離すことはできないということです。
(まだ言葉に落とし込めていませんが) つまり、家族や土地の記憶が、身体的・感覚的に自分の中に刷り込まれているということ。

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①色彩と美的感覚
多摩川は庭のような存在で一人暮らしで家を出るまでは、何の気なしによく来ていました。

そして、来るたびに川面の色の濃淡が変わっていて、それを見るのがいつもの楽しみでした。

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そういう訳で、色は淡い色、名前を持たない微妙な色が好き。

絵画はあまり詳しくありませんが、ウィリアム・ターナーの絵に惹かれるのはこのせいかな〜と最近気付きました。
また、ここ一年ぐらいずーっと取り憑かれたように建物を見て回っています。

そのなかでも、とりわけ周囲環境に溶け込む建築、水を感じる建築がお気に入り。
これも自分と自然、特に多摩川との関わり方が関係するのかなと思っています。
ちなみに昨年観たベスト建築は谷口吉生さんの鈴木大拙館。

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②言葉の感覚
明日も休みということもあって、久しぶりに笑点を見てからの帰宅。
(今の家にはテレビがないのですが、笑点を観れないことだけが唯一悔やまれること)
我が家の日曜日は昔からサザエさんではなく、笑点で締めくくります。
まだ言葉も世の中のこともよく知らなかった幼い頃は、袴着たおじさんの言っている意味も、それを笑う両親の気持ちも全く理解できず。
しかし、小学生も後半になると、噺家さんが言っている意味が徐々に理解できるようになってくることを嬉しく思うようになりました。
そして、いつの間にか自分の言葉選びに影響し、ズラして笑いをとる感覚も身に付いてしまいました。
(今では自主的に寄席へ行ってズレを学びに行くことも、、、)

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最近だと、大好きなアーティストの一人、杉本博司さんの本を読んだら、杉本さんも寄席に通わされて育ったとのこと。
やはりその方もズレ感が身に付いて、作品に影響していると仰っていました。
ちなみに茶室の作品も多く手がける杉本さんですが、私も保育園児のとき茶道をしており、そこにも何か通ずるものを感じます。

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③何を食べるか。ではなく、誰と食べるか。
山崎家の食卓ルールは厳格で、家にいる限りは必ず全員揃ってご飯食べることが原則。
小さい頃は何でそこまで五月蝿く言うの?!と思っていました。
しかし、一人暮らしをしてから気付きました。
一緒に食卓を囲んで食べるご飯がなんと美味しいことかということ、そしてご飯を食べながら会話を交わす楽しみも。
また、こんな気付きも。
外食するときに大切にしていることは何を食べるか、よりも誰と食べるかということ。
そしてその人とゆったり会話できる空間を探すことにいつも尽力しているな〜ということに気が付きました。

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今回の帰省では、他にも数え切れないほどの再発見がありましたが今回はここまでで。
小さい頃から、田舎に住んでいることがコンプレックスで早く都会に住みたいと思っていたし、今でも地元に対する思い入れはそこまで強くありません。
むしろ土地に縛られたくないとまで思っていたぐらい。
でも土地の記憶ありきで今の自分が成立することに気付き、もう少し自分の生まれた街や家族と正面から向き合ってみようかなと思います。